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SPECIAL EDITION

監督が現在執筆中の、未発表自叙伝より 連載 A

私の超個人的日本映画史「松竹マークで登場した石原裕次郎」






松竹マークで登場した石原裕次郎

私の1976年の作品に『凍河』というのがある。五木寛之氏の原作で、戦争の影を背負った精神病院の老院長を軸に、そこに働く様々な世代の医師、看護婦、そして患者たちの悩みと夢を現代に問い掛けた内容で、当時の私には、思想的にも感性の上からも非常に共感の持てる内容だったので、会社(松竹)からの企画ではあるが、喜んでお引受けした。早速スタッフを編成し、準備に入ったのだが、ここで思いもよらぬ障害が起きた。それは映画のキャスティング、つまり配役の問題である。

その時代の松竹の風潮は、それまでディレクター・システム(監督主導)だった製作体制が、次第にアメリカ的なプロデューサー・システム(製作者主導)に変化してきた頃で、極端に言えば監督を決めるのも、出演俳優を決めるのも全てプロデューサー。この『凍河』の主要人物の配役も監督が決まる以前にも決められていた節がある。勿論それが結果として映画のためにプラスになれば問題ないが、時として、役との適正とか、監督の狙いとかは関係なく、会社の俳優行政、プロデューサーの個人的趣味趣向、甚だしいのは俳優事務所との貸借関係までキャスティングに影響する。
 しかし私の経験では、そんな状況で生まれた配役でも成功した例もあり、一概に反対せず提示されて俳優にまず会ってから結論を出そうと思っていた矢先、原作者の五木寛之氏から配役の件で抗議が申し込まれた。それも監督の私にである。配役が納得いかないというのである。五木氏の立場では当然そう考えるだろうと思う。原作者や監督に相談せず配役を決めてしまう会社も困るが、その事から起きる波紋も監督に押しつけ、自ら解決しようとしないプロデューサー・システムには如何に過渡期とはいえ無理がある。しかし生意気のようだがその頃の私には、例えどんな俳優でも人柄さえ信用出来れば、絶対立派な成功させて見せるという気負った自信があり、それに、その俳優も話してみると想像以上の好青年だった。強いて言えば原作者の描いたイメージとタイプの違いなのかも知れない。私は会社の出方を待つしかなかった。

 その後、会社の内部でこの問題をどう沈静化させたのか知らないが、原作者と私の話合いの機会もめっきり少なくなったが、キャスティングにはまだ大きな問題が一つ残っていた。それは出演場面こそ少ないが、主人公の兄貴役で、豪放磊落、スポーツ万能、頭が切れて、弟がどんな事をしても絶対に頭が上がらない兄貴という設定で、会社での会議の席上では、いろんな名前が挙がったが、その誰もが帯に短くタスキに長く、今一つピンとこない。それまでの反動もなってか、私も会議では誰もが驚く名前を出した。「石原裕次郎はどうですか?この役をやれるのは日本中を探して裕ちゃん以外には絶対いませんよ」突然の私の発言に全員がポカンと驚いて私の顔を見た。もちろんこの席上に集まるような人たちは、全員が私と裕ちゃんの個人的な関係は知っている。それにこの役が他の誰よりも石原裕次郎が一番適役であることも知りすぎるくらい知っている。しかしそれは余りにも現実不可能で非現実的なアイディアなのである。何しろ相手は当時の日本映画界を代表するトップスター。その出演料を捻出するだけでもこの映画の予算では無理。第一石原裕次郎は今まで松竹映画には出た事もないし、役も主人公の兄貴などという役では失礼過ぎる等の意見が続出、せっかくの私のアイディアも一笑にふされそうになった。「とにかく一度、話だけは裕ちゃんに・・・」私のたっての要望で若いプロデューサーが、「そんなに監督が切望するなら、一応話だけはしてみよう」という事になり、正式に松竹から石原プロに連絡した。

 数日後、全く信じられないような返事が石原プロの小林専務から返ってきた。「耕ちゃんの映画なら喜んで出演する。出演料は一切いりません」これは裕ちゃんの答えだった。これには松竹の製作重役たちだけではなく、長い付き合いだった私も驚いた。後でマコ夫人から聞いた話だが、裕ちゃんは絶えず監督になった私のことを気にしていたらしく、それとなく私の映画も見ていたという。それでどんな形であれ私の映画に協力出来たらという気持ちがあり、この無料友情出演になったのである。S

撮影当日、場所は横浜の大黒埠頭だった。裕ちゃんは映画「凍河」の自分の出番の初日、見覚えのある豪華なキャンピング・カーでロケ現場に現れた。そのキャンピング・カーの中から裕ちゃんを先頭に、日本映画史に名を残す今は無き照明の大御所の藤林甲氏を始め、懐かしい日活撮影所のスタッフたちが、ニコニコしながら大きな箱を抱えて降りてきた。驚く松竹スタッフたちの前で裕ちゃんが全員に頭を下げたのである。「斎藤監督がお世話になっています。どうか今後ともよろしくお願いします」箱の中にはぎっしりと高級プランディーが詰まっていた。私は「ありがとう裕ちゃん・・・」と言っただけで感動で胸が詰まった。松竹のスタッフも、日活のスタッフも全員ジーンとなっていた。私は照れ臭いので、皆に顔を見られないように、すぐ撮影の段取りにかかったが、思えばその日から、この映画のクランク・イン前のモヤモヤした気分はスッ飛んだ。プロデューサー・システムでも、ディレクター・システムでもどっちでもいいが、私たちにあるのは昔ながらの活動屋システム・・・それだけ、それが一番なのである。

見栄でも、打算でも、宣伝でもない。本当の友情出演の恩恵を与えられた私としては、この事を忘れないためにも、この章を書いた。映画は完成し、批評も好評だった、特に院長役で出演の佐分利信さんと、出番こそ少ないが裕次郎君の兄貴の役が、共にその存在感の大きさで物語をしっかり支えていた。感謝する次第である。

因にこの映画は、何故か未だにビデオ化されていない。
当時の大プロデューサーの方も、定年になり、現在は何処で何をされているのか全く情報はない。
五木寛之氏は、作品や文も読ませて頂いているし、テレビも拝見している。この時の映画の若い主人公二人は、この映画がきっかけで結婚、今芸能界でも希に見る幸せな結婚生活を送っているという。

そして私は・・・ 遥か昔に松竹は辞めたが、今度は自分の会社でディレクター・システムとプロデューサー・システムの両方を兼任しなければならず、苦労は更に倍加している。